コラム:「佐渡ジャーナル」終刊 ~私にとっても最後となった連載~

By gkmyhn, 2023年2月11日

連載したころの佐渡

編集発行責任者の山本さんから提案され、連載を始めたのは平成18(2006)年7月からでした。その後、平成20年4月まで8回にわたり掲載させていただきました。

当時の佐渡を振り返ってみます。

産業規模を数年間で倍増させ、今日までの間で唯一「人口減少率を改善させた」と思われる二つの産業。それは、国施策による企業誘致の工業出荷額倍増、そして県施策の観光倍増計画による観光客数の倍増でした。この力強い産業も、数年のうちには半減し、何十年か前の振り出しの規模に戻るかもしれないと予感する時期でした。

バブル崩壊から続いた経済悪化も平成12年には終結。しかし、個別企業の多くは、自社の売上のピークは過去に過ぎており、まだ新たな事業機会を手にしたところは稀の時代でした。

一方で、平成16年に市町村合併で佐渡市が誕生したこともあり、期待感を誰もが持っていた気がします。それは、商工会の経営指導員グループで新潟日報の佐渡版で4回の連載をしたときのタイトル「再生と縮小 ”岐路にある佐渡”」でもわかります。まさに、そのような時代でした。

このような中、佐渡ジャーナルから連載の話がありました。佐渡島から東京に出ている人には力ある人達が多くいます。その方々に連載タイトルを「数値で診る佐渡」と客観的に訴えれば何とかなるかもしれない…という期待もありました。山本さんが私にした提案も、そこにあるのかなあと思っていました。「名称はジャーナルと、少々大上段に振りかぶった感はしますが...」と文章に書いていますが、私は名実ともにそうなることを願っていた者です。

 

連載終えてから17年、佐渡は変わったか? ~誤差2.6%で推移した人口~

下方に紹介する連載第8号に今日までの人口推計を掲載してあります。判読ができないため次に拡大したグラフを表示します。令和2年の国勢調査による人口は51,492人です。平成12年を基点にした推計値は50,134人で誤差は2.6%となります。

※平成17年の推計値と違いの主な原因は第8号の本文に記載してあります。平成17年基点の推計は、その5年前のデータを基になっています。この期間は何故かUターン率が極端に少ない状況でした。なぜなのかは調べてはありませんが、それが基に戻ったため、平成12年推計が近似値になったものと判断しています。

内閣府 経済財政諮問会議 専門調査会「選択する未来」委員会では「人口が減り続ける社会は、いずれ消失することになり、どのような未来も描くことはできない」と言っています。その観点では、佐渡島は今なお消滅に向かっての軌道を脱せない状況が続いています。

連載の内容

タイトル:数値で診る佐渡

※以下、クリックすると各テーマの内容が表示されます。

第6号(人口編)        第7号(産業編)       第8号(将来編)       第9号 (応用編)
第10号(応用編)       第11号(応用編)       第12号(実践編)  第13号(実践編-2)

※初回の第6号と最終回の第13号は現物が見当たらず手元にある原稿を基に作成しました。

 

私にとっても最後の連載となりました。

今から35年ほど前の昭和63年に「村おこし事業」に携わり、事業を行うと何が変わるのだろうと考えました。最初は「所得アップ」考えましたが、生活できないとなれば島外へ流出できますから、どこまでも下がることはないでしょう。最終的には評価基準は「人口」と決めました。当時は暗中模索だっただけに、前述「選択する未来」委員会の地域と人口を絡めた言葉は、後々になりましたが嬉しいものでした。

いくら計算しても減少がとまらない人口、提言するにも何をどうすればよいかわからない私。まず、みんなに知らせようと新潟日報へ連載の申し出をしました。当時の佐渡支局長さんのご理解をいただき、佐渡版で9回の連載を行ったのがスタートでした。以降、平成8年に11回連載、平成16年に4回連載いたしました。初めて島外へした佐渡ジャーナル分を含めると実に32回です。その結果は、最初は面白がられ、次第に暗い未来を言い過ぎると疎まれ、そして多くは無関心だった気がします。このときに佐渡ジャーナルからの連載提案があったのです。

これらの結果は前述のとおりで何も変わらなかった…でした。これは、人口に興味をもった最初からみても同じです。

新潟日報の佐渡版で開始した平成6年の初回のテーマは「人口半減、30年後は4万人に」でした。令和2年の国勢調査との誤差は12%。この「30年後」とは、この春に社会人となる人が生活や仕事で一人前となり、そして家庭も持ち子育てして、50代に入るにあたり時折り定年後を考えることが視野にはいる期間です。社会も変化の時代でした。この先々を9割以上の確率で当てられるという確たる自信があれば、力のない者が行うフィールドワークであっても、もっと違う展開をできたかもしれません。

今の時代、これほど長い連載をしてくれることは考えられず、改めて新潟日報と、最後の連載をしていただいた佐渡ジャーナルの山本さんに感謝をいたしております。

 

余談:うまくいかなかったこと、うまくいったこと

 

うまくいかなかったこと

高齢を迎え、働き生活するという皆様との舞台から降りるにあたり、残念なことがあります。古里の人口減少は、30数年前に「どこまでも減少するレールが敷かれているかもしれない」と案じた軌道をブレることもなく進んできました。必要なことがやり尽くされていたのか、何とかならなかったのか...ということです。

いつかの講演のときか、または誰に言われたかは忘れましたが、今日まで常に心に残っているものがあります。

それは、経営の中には、それは10年も前から分かったり言われたりしてきたことで、「そうしているとこうなる」ことはわかっていたのに「そうしてこうなった」ということが多い。そして、”「こうなった」時の対応も、根本的なことではなく対症療法的に当面のことだけで、その繰り返しとなる経営が多い…ということです。公私ともに「そうすりゃ、こうなる」ことはわかっていのだから、それを「そうして、こうなった」はマズイよ。必ず、そうなることの翌日はくるんだから、その時にどうなっていてほしいかの、それを今考えてなんとかしようよ…と言ったり自分に言い聞かせてきました。古里の人口減少に責任があるわけでもない私です。いつしか私のフィールドワークになったのは、「そうならないための手伝い」をするための準備をしておこうとしたのかもしれません。。

本文で書いたように「古里は当時のレールを今なお進み、私も具体的な手伝いはしなかった」が結果でした。ただ、誰にも頼まれたのではないのに”いやに執着した”気がします。昭和の終わりの頃、たまたま受講した厚生省人口問題研究所(今の社人研)の講師に添削の申し出をして習った際、「これを習得して、何をしたいのですか? 一般の方も興味があるのであれば私たちも対応したいと思います」という主旨のことを言われました。その後、対応してくれた方は書籍を出して私のバイブルとなりました。この推計手法も、今は各市町村で独自に行うほどになっており、やはり誰もが気にすべき必要なことだったと思いました。

また、「過疎化の中で佐渡の振興を考えるには、佐渡を一つとみて産業連関表を作り使うことが必要だよ」という主旨のことを教えられました。それは、新潟日報から提案のあった平成8年11回連載、その基になった事業の際にお世話になった、かつての佐渡市町村会の事務局長大坂三郎さん(当時は佐渡テレビ解説委員)からの助言でした。産業連関表は、佐渡にも昭和40年代に行ったものがあり、これを手直しするやり方で独自のものをつくり、全体としては青森県の産業連関表がわかりやすいと思い許可をうけて長い間にわたりテンプレートとして使ってきました。佐渡ジャーナルの連載で使ったものは、このテンプレートと応用したものでした。産業連関表は平成18年度末に佐渡市が作成しました。当時は全国でも稀だったようです。これも、今は国は全市町村で作成できるようにし、さらに広めようと、小学生や家庭の主婦でも使って”いろいろな対策を提案”できるようアイデア募集もしているようです。この「リーサス」の指定のモデル地域として佐渡市はなりました。この点でも、流れにのったことは正しかったという思いと、教えてくれた大坂さんの素晴らしさを思い出します。

このように、古里の”行く末”を考え理解し解決する過程で必要な二つのツールを作ったことは間違ってなかったと思っています。ただ、私などがお手伝いすることでもなく、国が大々的に進めるという流れになりました。

 

うまくいったこと

一方、これほど「うまくいった」ことはないと思う事柄もあります。それは「人口減少への責任」の問題です。

村おこし事業を担当したとき、私は地域のことは全くわからず素人でした。「温泉の湯布院」「池田町のビール」「桃栗植えてハワイへ行こうの大山町」など、華々しい成果の地域がありました。とても、太刀打ちできるような結果はできないと思いました。私の特長?強み?は、(能力のためか)人一倍長くした中小企業診断士の受験期間を通して経営の勉強をしてきたことです。このため私には地域を会社とみたて、経営の立場で診るしかないと思いました。その後、「地域も経営」といった見方や言い出す方々もあり、ホッとした覚えがあります。

こうしてして診ると、地域の人口減少は企業の人気度ともいえる売上減少に似ており、人口ピラミッドは企業の履歴書と言われる貸借対照表に似ているなど、共通点も多くありました。そのように診た場合、いつまでも売上減少が続く企業は、こんなことが起きて減少した、今度はこのように対策すると説明しても、いつまでも株主が納得するわけではありません。どこの会社も売上減少しているから当社もそうだ…では納得してくれないでしょう。同様なことが地域でもおきると考えたのです。実際にも、人口推計を始めたころは、「そのようにはならない」と思うことから、対策として行う事業そのもので評価された気がします。その後も各地の総合計画は、人口が増える増やせる部分を切り取ったり強調しながら記載されていることが目立っていました。これでは、人口を増やす”種”がなくなったり、全体の人口減少が止まらないことがわかると、やはり責任をとらされる人が出るだろうと思ったものです。

近年、それが「人口減少は、国全体で起きているから一地域で対応は難しいから仕方ない」的なニュアンスに置き換わりました。経営に関する講習では、講師から「不景気だから売上が減少するというのは日本全体を対象としている企業の言うこと、地域の経営では言うべきことではない。工夫、革新、再構築が必要」と教えられたものです。

しかし、「よかった」ことだと思います。最近では”過疎脱却”も”人口減少は止められる”と言われることも少なくなったようです。少しでも改善する、減少を緩やかにする…そのための対策事業そのものに視点や評価が移行しているようです。仮に人口減少が続くにしても、消滅への軌道から脱せないにしても、「会社のように責任をとらなければならない、その出来事ではなくなった」ことは、責任をとる立場でもないですが、こんなに”うまくいく”ことがあるのか…と安心?感心?しています。

懸念すること

これまで、見出しi的に言えば”過疎脱却か?”と華々しかった地域も多くは人口減少が続いています。これは、その効果ある事業規模を”どれ位の期間続けば過疎脱却できるか”を客観的な数値で明らかにしないで行っているためです。前項のように、人口減少は仕方ないものとして、再び当面の対策事業そのもので評価する時代に再び入ったと懸念します。もし知りたい場合、”人口再生シミュレーション”ツールは、それを知る道具です。ぜひ活用ください。

 

 

 

 

 

 

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